【現代】亡き父の七回忌のため北陸の故郷へ帰った五十歳の「私」は、五つ年上の姉から父の遺品であった鍵付きトランクを託される。母の早世ののち愛情に乏しい一家をまとめながら当地の「お屋敷」に執事として精勤した明治生まれの父が、屋敷を退いたときに携えていた唯一の荷物がそのトランクであった。今は亡き兄の嫁だった綾子がその鍵を持っていると聞かされた「私」は、翌日、内心の昂ぶりを隠して綾子に会いにいく。その途上、幼年時代の思い出が残る町はずれの「烏ノ森」へ誘い込まれるように踏み込んだ私の胸中に、鮮やかに甦ってくる往時の情景。藩政時代の牢屋敷をそのまま転用した森の中の屋敷が、父・千草恭介の仕えた退役陸軍中将・京堂義人男爵の別邸であった。小学生だった戦争末期に、辺鄙な田舎町のはずれに孤絶してそびえ立つ重々しい屋敷に執事の息子として出入りしながら、男爵が奥さまやお嬢さまとともに暮らす別世界を眩惑されるように垣間見た日々。回想にふける私の前に、当時の亡霊をなおとどめているかのように、さびれ果てた無人の屋敷がそびえ立っていた。